車輪の再発明

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「簡悔」は何がいけないのか

「簡単にクリアされたら悔しいじゃないですか」


 ――発言者の名前は当人の名誉のため伏せておくが、このような発言があり、そして発言者が携わったゲームのユーザーからなかなかの顰蹙を買った(らしい)という出来事があった。


 略して「簡悔」とも呼ばれるこの発言、確かに挑発的であり、それにもまして上から目線な印象は否めない。ゲームを作る自分を造物主のように、ゲームのプレイヤーをあたかも自分の掌の上で踊る人形のように考えているかのようである(あくまでそういう印象を受ける、というだけに留まるが、客を相手にする商売なのだから失言であることには変わりない)。

 

 思うに、「簡悔」というのはゲームの提供に携わる人物がしてはいけない発言、「それを言っちゃあおしめぇよ」な発言ではないかと思う。*1

 もし発言者本人がこの記事を読んでいたとしたら「貴様どんな大層な身分でそういうことを」などと憤るかもしれないが、かのガリポリの肉屋氏もこのように仰っているのでなにとぞご容赦いただきたいところである。

「私はタマゴを産んだことは一度もありませんが、タマゴが腐っているかどうかは分かります」
――ウィンストン・チャーチル(1874-1965)

 

  さて、「簡悔」は何がいけないのか、というのが本記事のテーマだが、これは簡単に言うと

 

 「簡悔」はゲームの提供者(作り手)としての立場を逸脱した発言である

 

 からだ。

 

 なぜ「簡悔」発言がゲームの提供者としての立場を逸脱したものなのか?

 これは「ゲームというコンテンツの提供」「それ以外のコンテンツの提供」の間にある違いを抜きにしては語れない。そんなもんどうでもいいとか、もう分かっとるわいという方はバーっと後の方まで飛ばしてしまっても構わない。

 

「ゲーム」と「ゲーム以外」を分けるもの

 「ゲーム以外のコンテンツの提供」というのは、基本的に「完成された物語の提供」である。小説にしても、ドラマにしても、受け手が受け取った物語はその終わり(区切り)までの過程(出来事)が一意に定まっており、それを定めるのは一貫して作り手(そして演じ手)側である。

 まあマーケティングの手法やなんかによっては、受け手を物語の創造にコミットさせることもあるかもしれない。しかしそれは「受け手の一部が作り手(演じ手)に回った」だけである。

 作り手がその仕事を成し遂げさえすれば、物語はそのカバーする範囲においてそれぞれ完成する(一意に定まる)。これが「ゲーム以外のコンテンツの提供」である。

 

 対する「ゲームというコンテンツの提供」は、言わば「未完成の物語の提供」だ。「FFやドラゴンクエスト"未完成の"物語だと!」と憤慨する方もいるかもしれないが、ここでは敢えて「未完成だ」と言いたい。これから「ゲームの物語」が未完成であるゆえんを説明しよう。

 

 クエストつながりで「デルトラ・クエスト」について考えてみる。

 小説、漫画、アニメ、ゲームとマルチな分野に展開しているこの作品だが、そのうち「ゲーム以外のコンテンツ」すなわち小説、漫画、アニメについては、媒体の違い、作り手の違いこそあれ、誰がどのタイミングで出てくるのか、どの場面で誰がどういうものを持っているのか、どの出来事に対して誰がどういった行動を取るのか、これらはそれぞれ「予め定まっている」のだ。

 つまり、「デルトラ・クエスト」は小説、漫画、アニメのそれぞれにおいて「完成された物語」なのである。

 

 一方の「ドラゴンクエスト」はどうだろう。タイトル画面がある。お城がある。王様がいる。お店がある。売り子がいる。フィールドがある。ダンジョンもある。フィールドやダンジョンを歩いていれば敵の一匹や二匹くらい出てくるし、われらが勇者はそれを倒すか、さもなくばそれに倒されるかするだろう。最後には竜王とかその類のものを倒してめでたし、めでたし、だ。


 さて、これらの出来事とその流れは一意に定まるだろうか?

 

その範囲で一意に定まりえない物語が「ゲーム」

 もちろん、一部については一意に定まるかもしれない。

 いつでもどこでも誰がやっても、はじめからプレイするなら物語のはじめに放り出される場所は同じだし、物語の最後に倒す敵も同じである。誰が読むにしても「坊っちゃん」の最初の一文が「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」なのと同じようなものだ(バージョンによって中身は変わるかもしれないが、それは作り手があらかじめ一意に定めたものであるから考慮しない)。

 

 しかし。あの場所で倒した敵は一匹か二匹か、それとももっとたくさんか?そのためにかかったターン数は?勇者はこの店でやくそうを買うか?買うとしたらいくつ買うか?勇者は最強の武器と防具で竜王に立ち向かうのだろうか?それとも最後まで律儀にひのきのぼうを使い続けるのだろうか?

 果たしてこれらは一意に定まりうるものなのだろうか?

 

 答えはもちろん否。物語におけるこれらの過程は、明らかにコンテンツの「作り手」ではなく「受け手」の側に託されている。

 作り手が作るのは、あくまでその過程を作るにあたっての「背景」だ。ドラクエならどこのダンジョンでどんな敵が出るか、どこの店でどんな商品が売っているか、といった要素である。こういった背景があった上で、それでも実際の過程をどう紡ぐかは受け手が思い思いに定めることだ。

 

 作り手がどんなに力を尽くそうと、受け手が始まりと終わり(区切り)を結ばない限り、「ゲームの物語」はどこかに不確定要素の残った「未完成の物語」なのである。

 

 ここまでの論の要点をまとめると、以下のようになる。

  • ゲーム以外のコンテンツの物語は受け手に提供された時点で「完成」されている
  • ゲームの物語は受け手に提供された時点ではまだ「未完成」である
  • ゲームの物語は、受け手が作り手から「背景」を受け取り、そこから未確定の過程を紡ぐことではじめて「完成」される

 

 ただし、ここで言っている物語にはいわゆる「読解」は含まない。

 例えて言うなら、「完成した物語」とは三角形であり、対する「未完成の物語」と「その背景」とは三つの点のようなものである。作り手が三角形(完成した物語)を描いた(提供した)として、受け手がそこにおにぎりを見出すかイルミナティを見出すか、といったことは物語の完成or未完成を左右するものとは考えない

 一方で、作り手が三つの点(未完成の物語とその背景)を打った(提供した)とき、受け手はその三つの点をどのような線によっても結ぶことができる(三角形にすることも円にすることもできる)し、結ばないという選択すらできる(そして、一連の選択はまだ行われていない)。このような状況をここでは「物語が未完成である」としている。

 

 以上を踏まえて、「簡悔」がどういう風にいけないのかを説明していこう。

 

特定の過程を否定するということ

 「ゲームを提供する」とは「受け手が最後のピースを作るコンテンツ(と最後のピースの作り方)を提供する」ということである。「ピースの作り方」を作るのは作り手だが、実際にピースを作るのはコンテンツを提供される側、受け手だ。

 そのピースはスピード重視で作られるかもしれないし、堅実さを重視して作られるかもしれない。あるいは見た目のインパクやら奇抜さ面白さを真剣に考えて作るひょうきんな人々もいるだろう。しかし、これらはあくまで「受け手」の選択によるものであり、「作り手」にとっては(ピースの作り方を作ることを通して)間接的にしか関与しえないものだ。

 

 だが作り手とて人間である。「こんなピースを作られるのは嫌だ」とか「こんなピースを作られると自分の考えたゲームの根幹が揺らぐ」とか、そういった思いを持っていない作り手というのは稀有だろう。

 対する受け手も同じ人間だ。「こんなピースを作りたい」「こんなピースの作り方は嫌だ」そんな思いを持っていない受け手というのは未だかつて見たことがない。

 

 万人を万遍なく満足させるのが最も困難なのは、ゲームを作る時も同じだ。どんなピースを作られても平気へっちゃらというコンテンツを作るのは困難だし、かといってあるピースの作り方を制限しようとすれば、そういうピースを作りたかった人は妥協するしかなくなる。それができなければそのゲームから離れていくだろう。

 これがゲームの面白さを成り立たせるためとかそういったもっともな理由に基づくものだったら、受け手側もまだ納得のしようがあったかもしれない。が、「簡悔」なんて言われてみたらどうだろうか。まるで純然たる作り手側のエゴによってピースの作り方が制限されているようではないか。

 

 そう、「簡悔」すなわち「簡単にクリアされたら悔しいじゃないですか」という発言は、まさしく「こんなピースを作られるのは嫌だ」という気持ち、作り手側が持つエゴの発露なのだ。

 

 「こんなピースは作られたくない」、「物語をこんな過程で完成させてほしくはない」、「受け手にはとことん苦労してほしい」・・・このような思いそのものは否定できない。ゲームというコンテンツの作り手の立場になれば誰しもが持ちうるだろう感情だからだ。しかし、それらの気持ちはあくまで受け手に提供する「背景」の中で完結させるべきではないだろうか?

 たとえどんなに厳しいものでも、どんなに理不尽なものだったとしても、ゲームの「背景」であり続ける限りそれは受け手にとって「挑戦状」であり、ある種の人々にとっては心の蝋燭へ火を点すものである。ゲームと受け手の対決であり、未完成から完成へと向かう物語になにかしらの華を添えうるものでもある。どこに作り手のしゃしゃり出る余地があるのだろうか。*2

 

 ギャグテイストの強い作品ならアリっちゃアリか。それでも「簡悔」場外乱闘なのだが。

 

まとめ 「簡悔」がいけない理由

  • 「ゲーム」を提供するということは、「未完成の物語」とそれを完成へ導くための「背景」を提供するということである
  • 作り手と受け手は、物語の「完成のさせ方」についてそれぞれ理想とするもの、忌避したいものを持っている
  • しかし、実際の物語をどのように「完成」させるかは原則として「背景」を受け取った受け手に委ねられるものである
  • しかるに、受け手に対する口出しでありかつ作り手側の理想を一方的に押し付けるような「簡悔」発言は、たとえ素直な気持ちの発露といえども作り手の域を逸脱したものである(理想への誘導とそれに反する行為の阻止はあくまで背景内で完結させておくべきであって、「簡悔」は言わば場外乱闘である)

 そういうようなわけで、一介の「受け手」としては、これ以上ゲームの作り手側から「簡悔」のような失言が飛び出してこないことを切に願うばかりである。*3

 

追記1 「殺すつもりで作った」はいいの?

 もしかすると、作り手のエゴの発露と言われて

「(プレイヤーを)殺すつもりで作った」

「お前ら(プレイヤー)みんな殺す」

 といった発言を思い浮かべた人もいるかもしれない。*4しかし、こうした発言は「簡悔」とは全くの別物作り手のエゴの発露どころかゲームの提供者としての真摯な姿勢の発露とすら評価することができる。

 それは、これらの発言が「自分たちがプレイヤーに提供しようとしているもの、提供したいもの」をもっとも単刀直入に表したものだからだ。

 

 食事の席に例えてみよう。食事を出す人に「これから出す料理はとてもおいしい」「この味はあなたも間違いなく気に入るはずだ」と言われるのと、「これから出す料理はこういう方法で食べなさい、それがマナーだ」「こういう食べ方をされると出す方としては不愉快だからしてはいけない」と言われるのとでは、食事をする人はどちらが気分よく出された料理へ向き合えるだろうか。

 これが、両者の発言の間にある違いだと思う。

 

追記2 「完成されていること」は悪か?

 「ゲーム以外の物語は完成されているがゆえに一意にしか定まらない」「ゲームの物語は未完成ゆえに受け手の裁量にゆだねられた部分があり、色々な物語が存在しうる」と論を展開したので、ゲーム以外のコンテンツを愛する方は不愉快に感じてしまったかもしれない。それはこちらの文章の至らなさゆえ、素直に謝罪する。

 

 しかし、私はゲーム以外のコンテンツが基本的に完成されているからといって、ゲーム以外のコンテンツの魅力がゲームのそれに劣るとは全く考えていない。受け手に対して「与えるワクワク」の方向性が異なっているために、完成と未完成の差が生じているというだけのことだと考えている。

 ゲームが受け手に与えるワクワクとは、「次にやること」へ思いを巡らせることによるワクワクが中心である。一方で、ゲーム以外が受け手に与えるワクワクとは、「次に起きること」へ思いを巡らせることによるワクワクが中心だ。*5

 

 「次に起きること」へのワクワクを提供するには、期待感が途切れないようストーリーや演出を組み立てる必要がある。したがって、物語はその展開が作り手の側でじっくりと練られ、完成されたものとなる。「次にやること」へのワクワクを提供するには、受け手に「何をやれるか」の選択肢を与えていく必要がある。したがって、作り手は選択肢のための「背景」に注力し、物語には未完成の部分が残る。

 作るものが違うからこそやるべきことが違うし、性質も違ってくる。完成か未完成か、一意に定まるか定まらないかも、その違いのひとつなのだというのが私の考えだ。その間に優劣やら白黒を付けようというつもりは一切ない。

 

*1:これと同じかそれよりダメな発言を挙げるとすれば、こちらも発言者は伏せるが「ほならね、自分が作ってみろっていう話でしょ?」ぐらいだろうか

*2:法が作り手の味方に付いているなら道を開けざるをえないことは重々承知であるが、ここではそうでない場合について論じている。

*3:「簡悔」の根っことなる精神については私からは何も言えない。作り手に受け手の内心の自由を侵せる理由がないのと同じように、受け手が作り手の内心の自由を侵すこともまた良いこととは思えない。

*4:当然、元の発言者は伏せる。

*5:ただし、RPGやADVなどは「次にやること」タイプと同じかそれ以上に「次に起きること」タイプのワクワクが重視されるので、完全に真っ二つに分けることはできない